感想文 アクアマン
世界よこれがヒーローだ。
前作ジャスティスリーグの酷評によりとまぴ氏の中でもう後がないDCコミックシリーズ。復活の一手に抜擢されたのは、僕も大好きな有能監督ジェームズワンでした。
これでダメならシリーズ追うの辞めよう、でもこの監督なら何か見せてくれるはず。そんな一縷の望みを託して劇場へ。
いやーやってくれました。最の高とはまさにこの事。開始5分でただならぬ空気を感じ、30分後にはベタ褒め感想文をどう書き出すか考えている。そんな名作でした。
3行でいうと
・低IQ高カロリーのゴリマッチョ大爆発
・赤毛のチャンネーは動画でこそ映える
・マン・オブ・スティールはいいぞ
先の2点は説明不要だろうと思う。
この作品、めちゃくちゃ王道のヒーローものでそこから逸脱することは1秒たりともありません。サプライズなど1つもなければ、意識高いドラマもないし昨今流行りのダイバーシティ人権描写もない。本当に予定調和に世界を救うだけのヒーロー映画。
なぜこれで面白いのか本当に謎なんですけど、そこは「密室から外に出るだけ」映画や「車が速く走るだけ」映画を大ヒットさせてきた天才の手腕なのでしょう。
ワイスピ監督がマッドマックスに感銘したあとの世界線でヒーローものを撮りました、そういう映画。人間が何に喜ぶのかよく知っている、そういう映画。人物もそうで、イケメンとか美人というより、我々が持つ美人の基準の方を書き換えてくる。そんな映画。
んで3点目なんですよ。
一つだけ気に入ったとこを上げるなら、イタリアでのチェイスシーン。唯一と言っていいメッセージ性を感じた場所。そこに何を読み取ったかと言うと、僕は「マン・オブ・スティール良かったよな」を見たんですよ。
アクアマンマン、追っ手から逃げる道中で一般人を救う。それはもうわざとらしく何人も救う。ワンパンで何十人いっぺんに守ったとかじゃなく、立ち止まってはおっさんを掘り起こし、すっ飛んで行っては飛来する瓦礫から幼女を守る盾になる。一人一人をいちいち助けるんですよ。
なぜなら!コイツは!ヒーローだから!
もうこれを書きながら泣いてしまうんですけど、もじゃもじゃの世捨て人みたいなオッサンがマジでヒーローやってるんですよ。
マン・オブ・スティールでは、(後にスーパーマンを名乗る)クラーク・ケントが戦う時に市民を守らないんですよね。戦いの余波で街を壊し、恨まれ、軍に狙われながら、何とか侵略者を退ける。
こんなのヒーローじゃねぇ、と映画評論家たちから総バッシングだったんですけど、それは違うんですよ。
あの時のクラーク・ケントはまだヒーローではなく「強い地球人」「クリプトンの王子」の狭間でアイデンティティに揺れている時期。そして悩んだ末の最後の最後に、クリプトン人として(≠強い地球人として)、人類を守るヒーローとして生きる事を決断をするんです。だからタイトルもヒーローとしてのスーパーマン名義じゃなくマン・オブ・スティールなんですね。
なので前半戦は戦う理由も、人類を守るためというよりは「やべー侵略者に目つけられたから」です。街を庇ったりしないのはある意味当然なんですね。
そんな紆余曲折を見てきた上での今作。
わざとらしいにも程があるお助けマンっぷり。明らかにそれと分かるようヒーローをしてます。ヒーローってこうだよね、をバシッと提示することで、MoSへの見当違いな批判に対する「あの時の彼はまだヒーローじゃなかったんだぜ(だからあれはあれで辻褄合ってるんだぜ)」というエクスキューズになっている訳です。
ヒーローじゃなかったマン・オブ・スティール誤解したまま、叩く側の視点からスタートしたバットマンvs〜ジャスティスリーグまで。この誤解にまみれた系譜では、やっぱり作品ごとの根底に流れるマインドにも統一感がなく、結果いまいちピンと来なく、売上もイマイチだったんですよね。
そこの過ちをリセットして、「マン・オブ・スティール良かったよな」と初代MoSを生かす方向性に戻してくれた。僕は今作をそんな風に見ていて、マジで嬉しく、DC復活の兆しとなりそうな、この先に期待を持てる作品でした。