ASCASO社のエスプレッソマシンのマニュアル和訳したり、映画の感想文、たまに恋愛相談。

tomatojuicer222's diary

ASCASO社エスプレッソマシンのマニュアル和訳を進めたり、映画の感想文、たまに恋愛相談

【映画感想文】君の名は。メインテーマ「前前前世」の謎

星降る〜よ〜る〜君〜に〜会い〜たく〜て〜

 

一個前の記事で、大抵の疑問は解決したと思っていたんですよ。

 

tomatojuicer222.hatenablog.com

 

そしてサントラを買いました。一曲目から映画の名シーンが蘇ってきて、強烈に揺さぶられますね。すごく良い。映画本編では泣かなかったのにこの曲聴いた瞬間ブワッと来ました。

 

ところがです。一番のメインテーマっぽい扱いの前前前世という曲が全く腑に落ちないんですよ。これだけサントラ全体が映画としっかりマッチした作りなのに、この曲だけ全く歌詞が合ってないんです。

 

「会いたい衝動」とか「大変な距離を越えなきゃ感」はすごくばっちり伝わるんですが、瀧くんが三葉を探して頑張ったのって岐阜に行った1日だけですよ。時間巻き戻しの分を加味してもせいぜい3年。長く見積もってラストシーンまで最初の出会いから8年です。

それが「前前前世から君を探し」「銀河何個分も超えて」「何光年分の物語を伝えに」さすがに盛りすぎ。

 

RADWIMPSの歌詞って昔から"君だけのために世界をどうこうする"みたいなそんな大袈裟な面はあって、素面で歌うと恥ずかしい感じなんですが、今回ばかりは納得がいかない。映画の内容とあまりにもマッチしない。

 

そんなわけでふと、これは「瀧くんから三葉に向けた曲ではないのではないか」という疑問がうまれたのです。この問題について考えていきます。

 

歌詞に合う様「何世代分もの会いたさ」を考慮すると、以下の三つの説が思いつきました。

 

・宮水の先祖目線説

 

・隕石目線説

 

・やっぱり瀧くん目線説

 

先祖説は簡単です。

子孫の無事を願う意思が信仰になり、能力になり町を救った、という流れは前記事に書いた通りです。時間軸として前前前……略……世という感じなのでアリです。でも子孫に向けて歌うって、こんなに狂おしいくらいの会いたくて堪らないような衝動になりますかね?先祖の歌だとすれば「会うことは出来ないけど元気でやりなよ」みたいな感じだと思います。ちょっとこれは違う気がするな〜。

 

で、次。隕石の気持ち。

前記事では宮水の信仰が発展して能力になったと書きました。能力はフィクションの部分なので深くはツッコまずに来ましたが、信仰→能力となるにはもう一歩、奇跡のきっかけみたいなものが欲しいです。子孫を守るという意思だけではダメです。何か質的な変化を説明する、不思議な力が介在しないと能力は生まれません。この映画の場合隕石です。

(参考情報: 不思議な能力にはきっかけになる人外の奇跡が必要という考え方は「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズに詳しいです。石仮面、赤石、弓と矢、ディオの骨、悪魔の手のひら、ミイラ、壁の目、ロカカカ、ときて隕石です。これはジョジョ第9部だったのだ!)

 

隕石は大昔に失った半身に会うために、地球に接近するたび毎回糸守に片割れを落としていきます。これはまさに地球外から来た、説明のつかない奇跡の力です。隕石由来のクレーターに作られた御神体、本体はもしかしたら隕石の欠片そのものかもしれません。この奇跡の恩恵にあずかり、入れ替わりの能力を提供していると考えます。

 

人間の技術(組紐、口噛酒)+隕石の不思議パワー(会いたいを実現する説明のつかない力)=入れ替わり

 

という感じです。

 

歌の話題に戻ります。あの歌は隕石目線で前回、前々回の欠片に会いたいという不思議パワーを表している、というのがこの説になります。歌詞の不可解だった部分がしっかり説明できる説だと思います。

 

 

それでもやっぱり瀧くん説

隕石説で説明はつくのですが、やっぱり映画を観た私としても瀧くんの歌であってほしい。そこで無理やり納得のいく説明を考えてみたのですが、ちょっと映画の見方も変えてしまう様な恐ろしい仮説に辿り着きました。

 

「瀧くんは何度もあの夜をやり直している」

 

酒を飲んであの夜に戻り三葉を救おうとする。失敗し、目を覚まし、喪失感を抱えたまま生活し、眠ったら夢の中でまた三年前をやり直す。この繰り返し。

 

隕石跡地に行った後からは、夢の中の記憶は全く維持できないので、毎晩記憶はリセットされ、隕石落下の朝からやり直し。

 

何百回、何千回ものトライのあと、遂にやっと成功したルートだけを描いたのが映画本編でのハッピーエンド。そう考えれば歌詞の大袈裟が全く違和感ありません。ぴったりです。

 

全くとんでもない説の様に思いますが、そう思って見返すと映画本編にもほんのり繰り返しを匂わせる描写があります。

 

冒頭「夢灯籠」の曲に合わせたシーン。普通に観ればただのオシャレダイジェスト映像なのですが、この説を意識してみた場合一回分の繰り返し単位です。だから「涙を流して目が覚め」「ずっと何かを探して」いる。本編ラストで、ハッピーな結末にそぐわない悲壮感漂う5年間を過ごしているのも納得できてしまいます。

 

他にも本編で時間軸が前後して描写されるシーンは多いです。未検証ですが、その中には単純な入れ替わりの描写だけでなく、繰り返しを示唆するものがもしかしたらあるのかもしれません。

 

最後は文句なしのハッピーエンドで良いのですが、その裏に数え切れないほどの失敗があった。ちょっと記事を書いていて私の心のダメージがデカい説です。

 

 

 

三つの仮説を書きましたがみなさんの考えに近いものはありましたか。私は三つ目に納得してしまっている自分に日々悶々としています。ツライので近々もう一度観てこようと思います。